姫路文連プロフィール
 姫路文連は1964(昭和39)年、有志の個人、団体によって結成され、以来、半世紀以上にわたって、地域文化の要として活動をつづけています。
結成にいたるまで
 姫路では、空襲で焼け野原になる以前から、戦後につながる文化運動の胎動がありました。終戦を境として、文学に美術に演劇に、いっせいに花がひらき、新しい波がおこりました。
 姫路美術協会が終戦前の1月に創立、11月には姫路文化連盟が結成、作家の阿部知二が会長となりました。 
 1946(昭和21)年には第1回の姫路市美術展が亀山本徳寺で開催され、次の年からは、姫路城西の丸に会場を移して1951年まで6回にわたっておこなわれました。

 1947(昭和22)年には、詩人たちによる「イオム同盟」が結成され「イオム」が創刊。つづいて姫路文学会が結成されました。
 演劇では西播小劇場の活動ぶりが目立ち、前進座もしばしば来姫しました。

 1948(昭和23)年には文芸同人誌のさきがけである「姫路文学」創刊、この地方の中心的な作家の発表舞台となりました。中断時期はあったものの、復刊して現在まで刊行がつづけられています。

 1949(昭和24)年には、演劇部門で姫人座が、文芸では城ペンクラブが結成されました。
 1950(昭和25)年、西播小劇場は葡萄座と改称、また城ペンクラブによる「城ペン祭」がひらかれ、53年までつづきました。
 1951(昭和26)年、この年から姫路市文化祭がはじまり、葡萄座と姫人座による公演がおこなわれました。翌年には姫路ラジオ・グループが結成され、公演に加わりました。
 また50年代においては姫路労音の結成、坂東大蔵舞踊教室の発足も、特筆すべきこととしてあげられます。
 こうした文化活動の流れのなかで、各文化団体のむすびつきができ、「姫路文芸懇談会」の結成、それがさらに「姫路文化団体懇談会
(文団懇)」へ改組発展することへとつながります。
ミュージカル「姫山物語」
 1963(昭和38)年、作家の椎名麟三から、姫路でミュージカルを上演しないかと提案がなされ、前年に発足した舞台芸術系の「芸術集団」と文学系の「文団懇」(会長・笹尾誠一)とがむすびついて6月に「ミュージカル姫山物語制作協議会」がつくられ、ほかにも多くの人士の力が結集されました。前例のないミュージカルであったうえに、いわば寄せ集めの大所帯、人間関係のトラブルなどもあって準備は多難をきわめましたが、11月に公演は挙行され、成功をおさめました。
 なお、この年に姫路文団懇によって姫路文化賞が創設されました。

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 翌1964年2月16日、「姫山物語」成功の余勢をかり、姫山物語制作協議会と姫路文団懇の合同総会がひらかれ、「姫路地方の文化団体間における相互の交流・協同・支援および情報交換のために必要な基盤となり、あわせて当地方における総合的な文化の発展向上のために活動する」という目的のもと、姫路地方文化団体連合協議会(姫路文連)が、黒川録朗、内海繁、笹尾誠一氏らを中心メンバーとして発足しました。
 そして姫路文連は、姫路文団懇が創設した姫路文化賞を第2回から引き継ぐことになりました。
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黒川録朗 内海繁 笹尾誠一
 姫路文連は1966年から「姫路フェスティバル」を開催し、67年には「城下町往来」を制作・公演。さらに美術館や姫路文化センター建設運動を推進、1972年の姫路文化センターこけら落としでの「はりまそめ歌」の公演と、活動を重ねてまいりました。

 1982年、黒川録朗初代会長が急逝。その遺志を受け継ぐために、翌1983年に黒川録朗賞を創設、将来にわたる活躍がとくに期待される才能を応援させていただくこととなりました。

 1986年には「明日にクリエイト」(姫路文連20周年記念行事)と題し、各ジャンルの戦後から現在までの運動の流れを展示とシンポジウムでふりかえる企画をおこなって好評を博しました。
 それからさらに20年の時が流れて結成40周年をむかえ、姫路フェスティバル「播種(はしゅ)」を2005年5月に開催、多くの市民に参加していただき、21世紀の文化とまちづくりを考える機会となりました。
 姫路文連規約には
〈目的と事業〉として
「本会は、姫路地方の文化団体間における相互の交流・協同・支援および情報交換のために必要な基盤となり、合わせて当地方における総合的な文化の発展向上のために活動する」とあります。

 現在、姫路文連には11団体と48名の個人会員が加盟しています。