初代事務局長 笹尾 誠一 

1901(明治34)〜1981(昭和56


鳥取市の出身。鳥取一中を卒業後、因伯時報社に入社したが、翌'19年(大正8)、 毎日新聞鳥取支局に移った。

記者生活のかたわら詩人として活躍、ザーザ誠一の名で町のモダンボーイとして、はなやかな青春舞台に登場。鳥取文芸連盟結成の一端をにない、いくつもの同人誌とかかわりを持って作品を発表した。

毎日新聞堺支局長時代に小野十三郎、安西冬衛らと親交を結ぶ。のち姫路支局長として転任すると、阿部知二を盟主とする城ペンクラブ結成に参加。内海繁、黒川録朗、初井しづ枝、大塚徹などと文学だけでなく、市の文化振興策についても日夜議論し、紙面にも反映させた。また姫路在住の鳥取県人をまとめ、その世話をやいた。それらは姫路・鳥取両市が姉妹都市として提携されていく先導となったのである。

一新聞支局長が退職するのに全く例のない市民集会が姫路市公会堂ホールで開かれたのは戦後10年目の'55年だった。詩人の内海信之、富田砕花、安西冬衛、小野十三郎、作家の椎名麟三、坂本勝兵庫県知事などが来席、異色のジャーナリスト笹尾誠一の功績をたたえ激励した。地元の文学と音楽関係者も長年にわたる後援に対し、返礼の文化祭をくんで呼応したのだった。

'58年(昭和33)、姫路で初めての文化団体の連合組織、姫路文化団体懇談会が結成され、その会長に就任した。

折からの原水爆禁止運動にも積極的なとりくみをされ、西播原水協会長として運動の推進に果されていく。姫路駅で毎月6・9の日に犠牲者救援募金をよびかけて立たれていた姿を思い出される人も少なくない。

笹尾氏には退職前、広島への栄転話があったが、姫路との交わりを絶つことに未練があり断わった。それもあって、広島の悲劇を二度とくり返してはならないと寒暑をいとわず街頭に立たれたのである。平和、文化の鬼といわれるゆえん。

                    記 市川宏三

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