菱の門を入ったところから三国堀と天守群をのぞむ。

07年3月撮影

三国堀
 姫山(本丸)と鷺山(西の丸)の谷間に位置する。堀とはいうものの、「掘ったんやなしに溜めたんです」。つまりダムだ。三国堀の北側にある逆ハの字の石組みは、そのあいだから水を流した名残りで、池田輝政の築城以前のもの。水流のつづきの遺構である石組みの溝が三の丸の地下1メートルにある。
「秀吉がもう三国堀をつくっとりますわ」。
 この周辺では輝政築城時の「ぬ」の門あたりの石垣などは新しいが、あとはだいたい古い時代のもの。古い石垣の石はサイズが小さめ。「横着になって」大きな石を使うようになった。
 姫路城に使われる凝灰岩は比較的軽くて弱いが、小さく割ることができる。だが大坂城の石は花崗岩で割るのが大変なこともあって個々の石を大きくした。石には石質に見合った「体力」があり、その大きさで使わなくてはならない。熟練の職人はそれを見分けることができ、石を使える限界の大きさで割る。花崗岩は硬いので大きく使えたのである。大坂城の石は、「何も権力で大きくしとるんとちゃいます」。
 姫路城の石垣は柔らかいのによく残っている。なぜなのか。石垣の強度と上の建物がマッチしていて、振動にたいしていっしょに揺れることで耐えているのである。
 
 西の丸東側の石垣のところに、明治のはじめに姫路城を破却から守った中村大佐の顕彰碑がある。しかし城内に駐屯した陸軍は城に相当なダメージをあたえたと西村さんは指摘。とくに西の丸でひどく、「中の大事なものをみな切っとるんです」。建物の管理上の問題から、昭和のはじめに風災で大きな損害をうけることになった。
「みなさんの家も毎日どこかで変化している。それをちゃんと見てやれということです」
「毎日毎日、時間のあるかぎり歩いて見てまわりました。それによって得たもの、知恵はものすごく大きいです。建物がむこうから話しかけてくれよる。いちはやく悪いところが発見できます」
 ちなみに西の丸東側の石垣は昭和13年の台風でくずれたのを積み直したもの。
「横着は絶対にしたらあきまへんで。馬脚をあらわす」


西の丸
西村さん(後列左から二人目)によれば大雨の日の姫路城はまた格別とのこと。
この日は降りそうで降らない、どんよりと蒸し暑い天気だった。

 戦時中に敵機の目から白壁をかくすための擬装網(細縄を墨汁で塗って網にしたもの)をつるした釘が各所に残っている。

 余談:三の丸の真ん中に大きな穴があったのが爆弾の跡だとの話があるが、西村さんによると、戦後に旧軍の銃器を焼却処分するためにあけた穴ではないかという。西村さんの出身校(三重県久居市)は兵舎のなかにあったが、グラウンドの真ん中に穴を掘って銃器を焼いたのを西村さん自身が目撃している。

西の丸百間廊下内周の石垣は二段になっている。
 鷺山には硬い岩盤があって、取りたくてもとれず、そのためにやむをえず二段にした。
「いっぺんに一段にしなかった技術屋は偉いと思います。二段にしたほうが見良い」
 西の丸のスペースの半分ちかくは造成されたもの。そのため東側、南側の石垣は変動が大きく、何度なおしてもガタガタになる。
 通常の見学ルートでは百間廊下の内部へ入るが、内周にそって屋外から見学する。
 西の丸は本多家の時代(千姫のいたころ)につくられたが、池田輝政の時代にもこの位置に出城のような施設はあったのではないか。ここを空けていたら本丸が危ないからである。
露出した硬い岩盤
 西村さんによれば西の丸の建物が風に弱かったひとつの原因ではないかという。この岩盤を取れずに石垣で覆ってその上に建物をたてたため、上構が柔軟に揺れることができなかったのである。
 建物の改造には重々気をつけなくてはいけない。職人は当初に全体を考えて家組みをしている。だから安易にこれぐらいは抜いても大丈夫だろうと思って柱や床をはずしたりすると、思わぬ荷重が別のところにかかることになる。「柱一本で家もちません。全部の柱が寄ってひとつの建物を構成しとるんです。むやみやたらに改造するもんやないんです」
 西の丸の建物が台風で大きな被害を受けたのも、陸軍によって部材が抜き取られたため。「陸軍の罪は重いよ」
「僕は(昭和の)修理のあと残って建物を見とれといわれて(姫路に)残った。それがものすごく役に立った。こう直したらどうなるということが全部見える。建物に精通しようとするなら、建てるだけでなく管理もふくめてやらなくてはわからない」
西の丸を北に出たところの瓦蔵の石垣
「見たところ7、80センチの角でしょう。中(奥行き)はあれの二倍から二倍半ぐらいあるからね。ぺったんこの石は積めませんよ」

「姫路城の城郭修理というのは比較的わが国では早いほうなんです。城郭というのはそれまで研究されてなかった。僕はここへ来たとき泣きました。城郭は最下底の文化財。城郭というと土木工事。木造建築では法隆寺がトップなんです。私は運が悪くて、法隆寺へ行く予定が姫路城にやらされた。昭和32年に来ましたが、その時代でも城はそんな見方がされてました。でも法隆寺へ行かなくて、今は喜んでいます。行っとったら西岡棟梁と大ゲンカしてクビになっとると思います」

「ここの棟梁はもう亡くなりましたが私より一回り上で、仲良くやらせてもらいました」

「(西の丸の)建物はふっとばされてわからなくなっていたところがあって、ちょっとあいまいな復元がされているように思える。渡り廊下の両端ぐらいに不明瞭なところがある」

「彦根城の石垣は花崗岩で硬くて重い。石あつかいがむずかしいので石積みが不規則な感じでツラ(見栄え)の悪い石垣になっている。姫路城の場合はホントらしく石が積んである。あのへんは穴太(あのう)衆がかりだされている。穴太積みはこんな(姫路城)のに近いといいますが、それはウソ。このあいだ坂本まで行ってきましたが、石垣の石が小さい。穴太衆は石をあつかい慣れていたというだけでもともと石垣積みではなかった」

「大きな石のあいだに小さい丸い石がはさんである、あれもウソ。昭和に崩れたのを積みなおすときに、崩れた石を割って使えばよかったものを、市川から丸石をとってきてはさんだ。柔らかい石のあいだに硬い石がはさまったので危ない」

「石が動くのをモルタルで固定したところがあるが、石は動かなあかん。なんでも自然に動かなあかんのです」

「この石(石垣にはさまっている小さい石)は詰めたんとちがいまっせ。「間詰め石」というのはあとでつくった言葉で、これは(大きい石と)いっしょに積み込む。大きな石より大事なんです。あれが抜けたら石垣がいっぺんに変動しますからね」

「石が横に並んでいるように見えるところは古い。そうでない新しいところはなんとか早く積みあげようと斜めにかけて積んである。横着はこわいんですわ」

「石垣の重量をささえられる岩盤をさがすのが普請奉行の仕事で、鉄棒を突きさしてさがす。普請奉行のほうが作事奉行より上位。おれが石垣を積んだとおりに建物を建てなさいと指図する立場」

「池田輝政は8年間で(築城だけでなく)町づくりまで全部やった。市川まで付け替えている。昭和の修理は城の修理だけで8年」

はの門へむかう坂の下
 狭間(さま 塀にあけられた穴)のパターンは各塀ごとに規則的に決められている。四角だけでなく丸や三角があるのは、死角をなくす工夫。狭間に木枠がはめてあるものがあるのは、鉄砲でこすれて漆喰が傷むのを防ぐ工夫ではないか。天守に近づくにつれ、さらに蓋が付けられるようになる。

 斜めに土塀をのぼらせているのは秀吉時代の工法。他の例としては岡山の高梁城に跡がみとめられるぐらい。近世初期になると、水平の土塀を段々につないでいく方法をとるようになる。

「はの門」の土台に転用された石造物
「時代的には秀吉のころ。信長と秀吉だけがこういうものを使いよるんです。石棺とか。輝政の時代になるともうあまり使いません。それでなくても石垣の中にはおびただしい石造品が入っとります。五輪塔の残欠などわんさかある。お地蔵さんまるごとも入っとる。姥ガ石とかあるでしょ。あれは中に入っていたものが抜け出てきたもの」

「にの門」下の古い石垣の隅石
 時代が新しいと切石を使った算木積みをするが、ここでは自然石が用いられている。

「にの門」は一重目に二重目がずれた向きでのっている。「これが木造のええとこですわ。上に自由に重ねられる」

これも古い土塀。まるく積まれた石垣による曲線

これは時代が新しい隅石の積み方(算木積み)
「隅を先にきちっと決めると積み良いんです」

石垣の下に露出した岩盤
 岩盤をさがしてその上に石垣を積む。石積み自体は変動しても岩盤は動かないので、石垣が比較的安定する。
「にの門」上部
「にの門」の屋根にのる鯱 下の鬼瓦は波しぶきのデザイン
 大天守頂部の瓦にも同じ意匠がみられる。ふつう城の鬼瓦には城主の紋をつけるが、姫路城は(例外の箇所はあるが)そうではない。「これはいちばんに輝政と話し合わなあかんと思います」「輝政というのは自由人なんです。いまでも一年に一度、城の屋根にのぼって見下ろしますが、屋根がさざなみの立つ海のようで、鯱がまさにそこにとびこもうしているように見える」「輝政の揚葉蝶の紋はきれいです。自慢してください」
「ほの門」をくぐったところの油壁 秀吉時代
「枠に土を、あれの十倍ぐらいの厚みに入れて叩き締めとるから硬いんです。線が入っとるでしょ。そのときに何かを土に混ぜて入れた。油を使ったんだということで油壁の名がついているが、僕が思うに、土を叩くときに(槌に)土がひっつかないよう何かを使った。それがねえ、油じゃないと思うんです。米のとぎ汁だともいうが、米が口に入らない時代ですよ。見てきたようなウソです。これを打つときに雑草を刈ってそれを釜でゆでて、それ(汁)を使いよったと思うんです。常にたやすく(大量に)手に入ったもののはず」
「こんな壁はまだもっとあったと思いますが、輝政の築城のときにここだけ残った(秀吉時代の)貴重な遺構」
「(壁の)下の方にはさけたところがありますが、昭和の修理のときにそこへ樹脂を塗ったものの、離ればなれになってしまった。建物というのはそういうもの。元と同じものをもってきてやらないと馴染まない。新しい土で作ったってダメ」
 土詰めについて
 石垣の内部には市川から運んできたグリ石がぎっしり詰められている。「市川や夢前川、姫路城は自然条件にめぐまれていた」。土を詰めたのでは荷重を支えられない。荷重のかからないところではじめて土が使われる。
「(連立天守の)中庭はすごい。雨が降ったら滝つぼです。(その水を井戸に溜めた)」「表側は三国堀の水が、裏側は中庭の水が守っている。水は大事です」
 雨が吹き込んだときに窓の敷居にたまる水を抜く管がついている。今はパイプだが、昔は一枚の鉄板を丸く叩いて、つなぎ目を上にしてさしこんだ。「昭和の修理ではパイプにした。そのへんが情けない。次代へ残す課題です」
 
「との一門」
「置塩(城)から持ってきたもんやというけどもね、おそらく秀吉のもの」「当初はこちらが城の表側」
 秀吉の時代の天守は輝政のと同じ位置でもうすこし小さい。いまの城は南が表だが、秀吉のころは北を表としていた。

帯の櫓
 内部は書院風の造りになっている。本丸外部の建物で柱が露出しているものは他にない。当初この建物は本丸にあった。おそらく本多氏が入ったときに整備して外に出した。南側東側のしつらえは「月見」をするようになっている。もともとこの位置は空地だった。
 この建物と太鼓櫓は床が傾斜している。このころから土台を使い出した。それまでは石垣の上に直接柱を立てた。だが職人が土台というものをよく理解できていなかった。石垣の両端がものすごく反っているので、水平をとるために土台を入れたのに、水平にできず、そこに床を張ってしまった。
 書院造りはここと化粧櫓ぐらいで、城主が楽しむために使われた。他の建物はいくさ用の造り。
 この南につづく土塀は亀裂がはいっているが、下の石垣の変動によるもので、土塀自体が古くなったせいではない。櫓の下、腹切丸へ(「城内で腹を切るわけがないんです」)の入口脇はコンクリートで補強してある。
「月見櫓という名なら情緒がありますけどね。松本城にも岡山城にもある。ここにはない。情緒がなかったんですな」

石棺を抜き出したあと
このあたりは「調子が悪かったので昭和の修理のときにいろてます(手を入れている)」

「りの門」(左)と太鼓櫓
この門をくぐると備前丸の下の上山里丸
「この門は輝政の城以前の門です。秀吉の次の木下家定のときに造っています」
「備前丸の(下側の)石垣は古いです。備前というのは輝政をさした名ですが、それ以前は太閤丸。秀吉がここにおったときは太閤とちがいますから、あとでつけた名です。そのときから何か(建物が)あったと思います」

「チの櫓」(左)「りの一櫓」 
石垣から抜き取られた石棺が置いてある。
「この櫓(チの櫓)も古い。おそらく秀吉でいいと思うんです。櫓で鯱のあがってないのはこれぐらいです。ほかはほとんど鯱があがっている」
「内部には壁の修理のときに切り抜いたものが資料として保存してあります」
「屋根に草が生えるようになったら終いですわ。屋根瓦の漆喰の目地が黒くなっとるでしょ。いかに湿気があるかということ。屋根の下地がグスグスになっとると思います。草の上を抜いて直してもダメ。昭和の修理に入る前に、おろそかな修理をした」
「軒の下に長い棒が三十本ほど置いてあります。あれは昭和の修理のときに基準尺とした「尺杖」。それを資料として置いた」
「昭和の修理のときに墨を摺らんと墨汁を使うとる。墨摺ったやつはすぐ固まるからね、墨汁のほうが書き良い。しかし三十年たってホコリをふき取ったら墨書きも取れた。それから僕はね、後世に残す文字は、安物の墨でもいいから墨摺りなさい、墨汁は使うなと言うとるんです」

「りのニ櫓」
「櫓自体に段がついとるのは、拡張したときの名残りです」
三の丸より見上げた、右から「チの櫓、リの一櫓、リのニ櫓」 07年3月撮影

「ぬの門」
 右側下段石垣は「もともと積んだ石垣とはちがうんです。あとから追っ付けたもの」
「地震のときには絶対ここに来たらあきません。あの門、ガサーッと崩れます。地震のときに外に逃げんならんと思って行ったら、モロにどでかい石の下敷きになります。このへんでじっとしとることです」
 たしかに、扉のむこうに隠れているところの石組みは外にふくらんでいて、一部はみ出しかけた石もある。
 材木の種類はとの問いに、「柱はツガ、梁はモミ」
「姫路城の修理に使ったのは台檜(台湾ヒノキ)。尾州檜を買う金がない。山になんぼでも立っとるのにな」