空地ちづ子



空地ちづ子さんは混り気なしの姫路びとであった。歌人としての出発は初井しづ枝先生との運命的な出会いから始まり、五人の幼子を抱えた未亡人の身で戦後の困窮を堪え抜く中から、短歌は空地さんの生き甲斐となった。

初井先生に従って北原白秋創刊の「多磨」に入会、その解散後は宮柊二の「コスモス」へと先生に添う影のように、直門高弟の献身を尽くし先生を仰ぐグループを纏め、持ち前の明るさと隔てのなさで一人一人の面倒を見ては先生の片腕となって活躍した。

「あんた、そんなことしたらあかんだっせ。こないするんだはあ」姫路弁丸出しで叱られた記憶も懐かしい。大らからに見えながら、一線を守るところは頑固だった。先生御逝去後は後継者として「コスモス姫路支部」を束ね、子達を立派に育て上げ「帽子屋のおばさん」と多くの人に親しまれた。姫路市から功労者の表彰も受け、その告別式には市長から贈られた大きな清らかな弔花が印象的であった。


                   記 水野美子